「触れられているのに、触れられていない」と感じたことはありませんか?
私は、ふれあいを仕事にしています。
"対面で人に触れるということ"
それは、リラクゼーションや技術レベルの話ではなく、もっと根本的で深いものです。
私がこの仕事を通して何より大切にしているのは、通じ合う時間が生まれることです。
「触れられているのに、触れられていない」感覚
私自身は、感覚のアンテナが敏感すぎる方だと思います。
相手の触れ方や言葉の奥にある「意識の重心」を、無意識に受け取るようなところがあります。
だからこそ、たとえ表面上は丁寧でも
・人として興味を持たれていない
・体に興味を持たれていない
・ただの対象として、テクニックが当てられているだけ
そのように感じるような関係では、心が自動的に閉じるのです。
そういう時間はどこか空っぽで、長く感じられます。
表面ではなく、「意識の重心」が伝わってくる
人の身体はとても正直で、触れられた時に、その人の「意識の重心」がどこにあるかを感じ取るものです。
・ 通じ合いたいのか
・効かせたいのか
・仕事をやり切りたいのか
その違いは、言葉や態度からではなくて、「気配」のようなものとして届きます。
どんなに礼儀正しくても、「私」に向けられていない手ざわりや視線でのアプローチは、ただの作業になってしまう。
経験やデータではなく「ここで起きる何か」を見ているか
私は、誰かに触れる時、知識や経験を当てはめようとは思っていません。
今この場で、何が起きるのか
相手の体が、心が、どんなふうに反応するのか
それを一緒に確かめる感覚でいたいと思っています。
それは、アートに近いものかもしれません。
「この人にはこのやり方が合う」という正解を探すのではなく、この一度きりのワンシーンとして何が生まれるのかを味わっている。
知識や経験は、それを邪魔しかねません。
「今の私にしか起こらない変化を見つめようとしてくれる人」との時間
受け手だった頃、
「この人は私の体に興味を持ってくれている」と感じる瞬間もありました。
それは、物体としての観察ではない観察をされている時に感じたものでした。
経験則や効率ではなく、私という存在そのものの情報を読み取ろうとしているような感じ。
無意識レベルでも、その「読み込みの意識」を受け取ることがあって、そうするとやはり無意識レベルで、体が緩むような気がしています。
そうして「この場の関係が始まっている」と感じられるのです。
経験値ではなく、記憶に残るワンシーンとして
私はこの仕事を、経験を積む手段としてではなく、一場面ごとのアートのように感じています。
知識やパターンとして蓄積するのではなく、
「今回のこの人と、この時間にしか起きなかったこと」を大切にしたい
それは、私にとっての美しさです。
セッションの「受け・渡し」という関係性とは違う。
私自身も揺れて、何かを受け取って、私の心の中にも火が灯っている。
…そんな時間を、私はふれあいの中で味わっていたいのです。
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