私のセックス観

派手じゃなくてもいい
わかる人が少なくてもいい

私は、このおぼろげな道を、自分自身の感覚にウソをつかずに歩いてきました

わかってくれる人が現れなくても、自分の信じた場所に、明かりを灯してきました

それが、私の性であり、私の生き方

私はこの道の上にいます


私は、男性とのいわゆる「セックス」と呼ばれるものを経験して、それがセックスだと信じてきました。

けれど、女性と触れ合ったことで、その認識が大きく変わりました。

性器の挿入がない女性どうしの触れ合いの中で、私は初めて、本当に満ちるような気持ちよさを知ったのです。

女性と触れ合うことを求めている自分に気付いた後、男性器が「無い」自分を直視することになり、虚しさや苦しみで混乱していました。

そんなある時、男性器が無いことを痛切に感じて、ベッドに顔を押し付けて泣き出しそうになったことがありました。

不思議なことに「何も悲しいことはないよ」という感覚が私の奥底から静かに湧き上がっていて、いつの間にか私全体を包むように存在していることに気付きました。

私を包んでいるその感覚はあまりに大きくて「悲しもうとしている自分」は小さすぎて敵わないのです。

悲しもうとしている自分は、エゴの自分なのでした。

または「感情を感じ切った」とはこういうことなのかもしれません。

奥から湧いてくるその感覚はさりげなく、でもずっと知っていたことのように、非言語なのに、私の脳内のエゴの泣き言を、「ケタ違いの安心」と「愛の感覚」で支えてくれたようでした。

例えるなら、泥酔して泣き上戸になりかけていた私が、一瞬で正気に戻って真実を捉えることができたような感覚です。

それ以降は「あるべき男性器がない」感覚ではなく、「これでいい」と心身共に深く納得するような感覚になりました。

その体験があったことで、私の心と体が満たされる本当の「呼応」を知ることができました。


私は、恋愛感情とセックスの欲求が、別々に成り立つこともあると感じています。

セックスは、愛の確認でもなければ、相手を独占する手段でもない。

もっと自由で、もっと個人的で、本質的な感応。

私にとってはそういうものです。


セックスは、体の接触だけで起こるものではありません。

心と体が呼応しあい、そこにある「熱」のようなものが立ち上がるとき、私にとっての「性」は始まります。

その熱は、心の奥にある「火」のようなものです。

抑えきれない情熱というよりも、静かに灯っていて、でも確かに自分の命を感じさせてくれるもの。

私のところに来てくれる方々は、私の中にあるこの火の性質に、何かを感じて来てくれているのだと思います。

だから私は、同じように相手の奥にある火にふれたとき、自然に体が動いてしまうような関係を望んでいます。

ただ体を重ねるのではなく、火と火が通い合って生まれる交わり。

それが、私にとっての本当のセックスです。

かと言って、精神性や性エネルギーでの交流だけでなく、直接体で感じる快感も大切にしています。

「快楽にただ振り回されることは望んでいない」という態度です。

体も使う、動きも使う、自然に漏れる声もやり取りする、接触による快感も受け取る。

その上で、自分の「内側にある熱」にまっすぐでいたいのです。

性を楽しむ態度は、私にとってとても大事なものです。

そしてそれは、私の言葉を読んでくれている人たちにも提案してみたくなります。

"おバカしないなんて、ばかやろうよ♡

一緒にばかなことをやろう

エロくてばかばかしくて仕方ないこと、やってみよう

知能は一端どこかに置いて、振り切るくらい笑って、すました顔で帰ろう"

なにも、いつもオープンでなくても良いのです。

オープンと秘め事を行き来する、そんな切り替えも、性を楽しむ一部なのかもしれません。


私が大切にしているのは、心と体の奥で起こる、本質的な「呼応」です。

その呼応は「愛しているから交わる」というような物語の中にあるのではありません。

互いの存在が、深い部分で「うなずき合う」ような感覚の中で起こります。

そこには、与える・受け取るが混ざり合い、役割の固定が溶けるような自由さがあります。

だから私は、相手が心を開いて体を預けてくれるとき、私もまた自然に開いていられるのです。

もし、セックスしてあげる・してもらうという表現を疑問なく使う人がいるとしたら、私は悲しさを感じます。

主に「男性がしてあげる側」という考え方が強い印象があります。

逆に、男性が求めて、女性が応えるならば、「女性がさせてあげる側」ともなります。

そういう分断のような感覚が、私は悲しいのです。

女性同士であれば「攻める・受ける」の役割がありますが、それも私にはピンときません。

攻めると言っても、私は攻めながら感じることもあるためか、どちらも同時にある感じです。

受ける時にも、ただ受け取っているだけではなくて、自分の感じている物や気持ちを表現することに幸せを感じます。


かつての私は「女性にとっての幸せ」とされている生活環境の中で、自分が満たされていると思い込んで生きていました。

ですが、今の私は、その制限の中にはもう戻れません。

かつての生き方が「間違っていた」のではなく、私には合わない、生ききれない形だったのです。

性的に触れ合うことがすべてではありませんが、私にとっては、生活の中に性の気配があることが自然です。

心と体が緩み、開き、重なっていく。

そのプロセスにこそ、生きている実感があります。


今の私は、自分の心の火に正直に、そして丁寧に生きていたい。

私にとってのセックスは、その火の揺らぎが誰かと共鳴した時にのみ生まれる交わりです。

セックスを求めること・望むこと・実現しようとすることは、私が私として生きることの根本にあるのです。

このような文章を書くこともまた、静かではあるけれども、熱のある性的な営みのひとつです。

誰かとの呼応を通して、私の中にふっと火が灯る。

その熱が言葉となり、誰かの中の火に、そっと触れていけたら…

それが、私にとってのセックスです。

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おがすみ|心と体のセラピスト

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