性別違和を通して、今の私がどんなところに立っているのか、その開示として記事を書きたくなりました。
性別違和を自分で受け入れられたのは、出産後、育児中の段階でした。
それまでは、「自分は体が女性だから女性だ」と強く思い込んでいて、性別に違和感があっても 「そういう女性なのだ」と思っていました。
自覚した直後は、これまで見えなかった新しいタイプのつらさが表に出てきました。
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男性を模しての性行為をしてみたこともあります。
外付けのものに期待をしたのですが、それがあまりに無感覚で、その現実にショックを受けました。
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本当はヒゲや体毛や筋肉があったらいい。
でも、男性ホルモンを取り入れることには抵抗があります。
健康への影響がどう出るのかが未知なのと、男性の特徴が出た後は、もう戻れない変化が多いから。
何より、男性ホルモンを取り入れても遺伝子が変わるわけではない。
生物学的男性になるわけではないからです。
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勤務先の飲食店で男性の制服を支給してもらったことがあります。
お客さまから、男性と思われて声をかけられることも経験しました。
一方で、二度見される、名札をすぐ確認される、「どっちなの?」と聞かれる、「ジェンダーレス」と笑われることもあります。
私は男性ごっこをしているわけではないのですが、反応はそんな感じです。
気まずいのが、お客さまが私を男性と思って声をかけてみたら、話しているうちに女性と気付いて、急に呼び方が変わる時です。
━お兄さんからお姉さんに。
━○○君から○○さんに。
性別違和を自認する前のエピソードも、少し書きます。
性別の感覚が関わることについて、様々な行動を取ってきました。
そして、「しっくりこない」ということを繰り返してきました。
社会人になっても化粧ができない私は女性として未熟でマナー違反なのだと思って、メイクレッスンには何回も行きましたが身に付きませんでした。
レッスン中も、仕上がりも、楽しい気持ちは皆無でした。
まつエクをして女性性を高めてみよう、と思って挑戦したことがあります。
付けてもらった後は自分で取ることもできなくて、私にとっては罰ゲームのように感じました。
きれいと感じるとか、テンションが上がるという実感は無くて、心身が喜んでいない感じでした。
妊娠中は知られたくなくて引きこもるなどしました。
マタニティマークはバッグに付けてみたけど、バッグの中に入れて見えないようにしていました。
産後は、3か月くらい鬱状態になりました。
これらのエピソードは「女ではない」という証拠として挙げたのではありません。
「理由がわからないまま嫌だった」という、その感覚を書いておきたくて書きました。
「体は女性だけど、意識は男性だ」という自認に至って、これまでの様々なエピソードに納得感が生まれました。
それと同時に、私の前に現れた事実が、この記事の最初に挙げたような「新たな苦悩」を生んだのでした。
女性としてできることが喜びにならず、かと言って男性ができるはずのことが、私の体ではできない。
どちらの性別も生きることができないというような感覚です。
・女性として喜んで生きることができない私は、損をしているんじゃないか?
・(男性のシンボルも、男性のような腕力も)あるべきものが「無い」という意識で生きるしかないんじゃないか?
・男性の意識が、女性の体に閉じ込められているような感じでかわいそう
こんなふうに、自己憐憫の沼に落ちていくような感じがありました。
生物学的男性になることはできないので、そのつらさに留まり続ける生き方もあり得ます。
私は、いろいろ試みながら、スピリチュアルの手法も含めて使えるものは使って、「私の中の男性の意識」を、満たそうとしたり慰めようとしました。
私は、自分をあきらめたくない気持ちがはっきりとあります。
自分の内側のことに関しては特に、あきらめが悪いです。
そんな試行錯誤をしているうちに、あることに気付きました。
私は、自分の中に見つけた「男性の意識」を救おうとして一生懸命になっているばかりでした。
ある時、私の「女性の体」の側にも、男性の意識を抱えて生きている負担があるのではないかと思いました。
意識(男性側)を救いたいあまりに、体(女性側)を悪者のように扱っていた私の中に、体(女性側)の感覚を労わるような視点が、初めて生まれました。
そして、不思議な意識の体験をしました。
男女の形のセックスができない悔しさを、改めて強く感じたことがあって、その重さでつぶれそうになったことがありました。
まさにその場でベッドに顔をつけて、私の心身は悲しみに沈んでいこうとしていました。
その途中で、不思議な感覚が浮かびました。
「何を悲しがろうとしているのか、本当にわからない」
その感覚が自分の中で生まれていました。
それは、これまでに感じたことのない感覚でした。
なんとも抽象的な感覚なのですが、自分の中ではとても大きなものとして感じられました。
落ちて行こうとした気持ちが、落ちるところは存在していないかのように、下から支えられている感じでした。
悲しみに沈んでいこうとする方向が、自分の体感や実感とは結びついていないことも感じ取りました。
沈む流れに乗る理由が、心身のどこにも見つからない感じ。
「悲しみを必要としていた私」が、「悲しみに落ちていく物語を、自分であおる」というプロセスを求めていたように感じます。
それから、自己憐憫を深める方向には向かなくなりました。
自分をかわいそうがりたくて悲しみに落ちようとしても、その時の支えられた感覚が再生されて、止まる感じです。
悲しみや迷いが消えたわけではありません。
ただ、それを大きくしようとする動きに意味が無いことを、自分の心身が理解したような感覚に近いです。
この変化の後、私は「男性の喜び/女性の喜び」という分類に関心を持たなくなりました。
そこに自分の答えがあるとは感じられなかった。
私が本当に確かめたいのは、
“自分にとって何が自然で、何が喜びなのか”
という一点だけなのでした。
私が女性の体で生まれてきた意味は、まだわかりません。
ただ、意味そのものは確かに存在していて、自己探求を続ける限り、いつか私が納得する形でわかるであろうことは疑っていません。
今も、自分の内側を確かめながら進んでいるところです。
自分の体のこと、性のこと、できることとできないことを、見失わないようにしています。
現時点で、
・悲しみをあおる方向へ行かなくなったこと
・「男性か女性か」よりも「自分の喜びとは何か」のほうが重要になったこと
この2つは、はっきりとした変化だと受け止めています。


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