「幸せ」や「死」の常識に揺れながら

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猫の看取り

先日、一緒に過ごしてきたネコが亡くなりました。

最期の瞬間まで、私の家は特別なお別れムードではなく、通常の生活の空気でした。
ネコは最期まで、そんな「いつもと変わらない雰囲気」の中で過ごしました。

ネコ自身も最後まで自分の足で歩いていて、トイレや、その時の気分で行きたい場所に行っていました。

最後の最後には、お気に入りの「ちぐら」に自分で入りました。
入って間もなく、その中で静かに息を引き取りました。

私はずっと「看取る」ということに対して、重い責任や役割のようなものを感じていました。

でも、このネコと過ごした時間の中で、「最期の瞬間を見届けること」そのものが、必ずしも看取りではないのかもしれないと思い始めたのです。

祖父の危篤の記憶

この出来事がきっかけで、祖父のことを思い出しました。

祖父の危篤の連絡を受けた時、私はすぐには向かわず、最期には間に合いませんでした。

これまで、そんな自分を許せずにいて、思い出す度に自分のことを責めていました。

けれど今回、ネコの最期を感じて、そのための物理的・精神的な準備をする中で、私は本当は「祖父の看取りの場にいたくなかった」のではないか、と気づいたのです。

そして、それは決して悪いことではなく、自分の感覚として正直なことだったのだと思えました。

「最期の瞬間にいなかったからダメ」ではなく、その人やその動物の命にどう関わってきたか。

その温かさやつながりの方が、よほど大切なことのように感じます。

よく、「たくさんの孫やひ孫に囲まれて看取られるのが幸せ」というような価値観を耳にします。

でもそれも、時代や文化の中で作られてきた「幸せのひとつの形」にすぎないのかもしれません。

その場にいることだけが愛ではなく、離れていても通っているものがあるとしたら、もっと自由な看取りの形があってもいいと今は思っています。

友人の死が教えてくれたこと

2年前、私の友人が42才で亡くなりました。
私より1才年上でした。

社会ではよく「若くして亡くなるのは不幸なこと」とされます。
けれど私は、そういうワンパターンな価値観に強い違和感があります。

彼は、私の話を、真剣に丁寧に聞いてくれる人でした。
私が至らないところについては、嫌われるかもしれないのに、直接指摘してくれることもよくありました。

だからこそ、その命を「短かった」「かわいそう」「こどもを残して逝ってしまった」と語られることが、悔しくてたまらないのです。

彼とは、過去にパートナーとして付き合っていたわけではありません。

正確には、私が彼を好きだった時期と、彼が私を好きだった時期がズレていて、それがかみ合うことはありませんでした。
けれど、私の中にはそのことも含めて、彼と私が確かに生きた時間として残っています

長く生きることや、恋愛としてうまくいくことだけが「価値ある命」ではないはずです。

彼は、生きていても亡くなっていても関係なく、私の命に影響を与えてくれている、そんな存在です。

「幸せ」のワンパターンを問い直す

もし今、私が死んだら…?

世間からどんなふうに評価されるか、なんとなく予想がつきます。

「結婚して、子どももいて、幸せな人だった」
「短い人生で、家族にかわいそうな思いをさせた」

そういった言葉が並ぶと思います。

でも、誰が悪いわけでもなく、それほどまでに「幸せの価値観」がワンパターンなんだと思います。

「枠に収まったまま長く生きる」ことが良いとされても、私にとってはそれは、とんでもなく苦痛です。

無駄に過ごした1日の穴埋めをするように、その夜に夜更かししてしまう時がありませんか?

無事に、平穏に、事を荒立てず、主張しすぎず、まわりに迷惑をかけないように…などのスタンスでただ長く生きようとすることは、穴埋めの夜更かしをしたくなる1日を過ごしている時の心情と似ているのかもしれません

スケールが、1日なのか・一生なのかの違いだけで。

「死」にまつわる違和感

死については、なるべく触れてはいけないものだと思ってきました。

私も誰もが、例外なくやがて終わる命です。

だったら、見つめてもいいのかもしれない。
いや、遠慮なく直視してもいいじゃないかと、そんなふうに感じています。

死について語ることは、不謹慎だったり、縁起が悪かったり、バチが当たりそうだったりと、どこか怖い印象があります。
私自身、そのような空気を受け取って育ってきたからか、ずっと避けるようにしてきました。

SNSの世界でも、「死」という言葉は伏せ字にされるのが当たり前になっています。
BANされることを避けるために、という理由もあるでしょう。
そういう投稿を見ると、自分も伏せなければ嫌なことが起こるような気にもなってくるのです。

でも、最近になって、そういう感じ方自体に疑問を持ち始めました。
それは本当に私の感覚なのか?
そう感じさせられてきただけなのではないか?

死をどう語るのが自然なのか、まだつかめずにいますが、ここに今の私が感じているものを言語化しました。

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おがすみ|心と体のセラピスト

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