所有しない愛を、生きるということ
私の初恋は、小学校に入学してすぐでした。
同じクラスにいたNちゃんという女の子を好きになりました。
同性だからいけないことだと、すぐに思いました。
「本人にも、まわりの誰にも知られてはいけない」
そうやって、自分の中だけの秘密にしました。
さらに数か月後には、同じクラスのMちゃん(女の子)のことも好きになりました。
ひとりじゃなく、ふたり。
その時の私は、自分のことがわけがわからなくて、
でもこれが誰かに相談できるようなことではない、ということだけは悟っていました。
だから、この気持ちは気のせいだと自分に言い聞かせて、心の中を落ち着かせようとしていました。
それでも、好きな人が何人もいる感覚はずっとなくならなかった。
こうして思い返すと、それ以降も例外なくそうでした。
中学年、高学年、中学、高校、大学、社会人以降も、その時々で同時に好きだった人のことが、何人も浮かびます。
でもそれは、どこか本当の「好き」じゃないんじゃないかと思っていました。
ひとつひとつの想いが軽いのではないか、誠実ではないのではないか。
そんなふうに感じて、誰にも言えませんでした。
けれど6年前に参加したイベントでは、場の空気もあって、サラッと本音を言うことができました。
参加者のひとりに「あなたはポリアモリーなんじゃない?」と言われました。
その時に初めて、ポリアモリーという言葉を知りました。
※ポリアモリーという言葉を、私自身の感覚として表すなら「複数の人と恋愛的な関係を築くことがあり得る前提で、関わる全ての人との合意が成り立っている関係性」です。
ポリアモリーの概念に出会ったことで「自分の感覚と同じような人がいる、現実に実践している人がいる」と知って、気持ちが楽になりました。
希望も見えました。
私は「ポリアモリーという在り方が正しい」と主張したいわけではないし、その認識を広めたいとも思っていません。
名前や枠組みに自分をあてはめるより、ただ、自分の感覚に沿って関係を選んでいたい。
自分という人間が持っている感覚を、既存の言葉で端的に伝えるために「枠組みの名前」を使っている感じです。
私はポリアモリーでもあって、ポリアモリーではなく私なんです。
私はただ、命としての純粋な感覚を取り戻したい。
誰のものでもない命と命で、出会いたい。
「結婚している」というラベルが、自由を奪う時
私は既婚者ですが、結婚という制度によるラベルが、私の自由さを制限していると感じることがあります。
出会いの場に参加した時に、既婚というだけで非難されます。
ものすごい嫌悪感が飛んできました。
同性同士であっても「不倫」とされて、配偶者から訴えられるリスクすらある。
(そもそも性別関わらず、不倫とは何か?「倫理にあらず」であれば、倫理とは何か?そこがはっきりしている人としか、真の対話はできないと思っています)
私は夫に「オープンリレーションシップで生きたい」と伝えています。
隠しごとのない関係でありたいし、おたがいの間でどこまで開示したいか・されたいかについても線引きをしています。
でも、法や人の目は「個人間の合意」よりも「制度上の契約」を優先しているところがあります。
結婚していると、自由に関係を築くことすら難しくなる。
それが今の現実です。
愛は、所有でも、競争でもない
私が何より違和感を覚えるのは、
人と人との関係に「所有」の感覚が当たり前のように紛れ込んでいることです。
「パートナーがいる人と関係を持つなんて、かわいそう」
「奪った」「裏切った」
そうした言葉の奥には「パートナーは所有し合う関係」という暗黙の前提があるのではないでしょうか。
でも、素敵で魅力的な存在なら、パートナー以外の他の人がその人を求めるのはごく自然なことのように私は思っています。
私が共に生きたいと思う人なら、その人が誰かと別の愛を育ててみたいと思った時には、その関係を否定するよりも応援したいと感じます。
もちろん、もしその人が私の元を離れていくなら、寂しさはあるでしょう。
でも、無理して形だけ一緒にいることの方が、ずっと不自然だと私は思うのです。
仮に、私の現在のパートナーである夫が、私とは別の誰かと出会って関係を築いたとしても、私はそれを止めたいとは思いません。
もしその関係の中でこどもが生まれたのなら、その子にぜひ会ってみたいと思います。
その子のことを、間違いなくかわいいと感じます。
私の愛は、そういう形をしています。
誰かにとどまってもらおうとするのではなく、命のつながりそのものをリアルな感触でまるごと受けとめたいという感覚です。
好きな人が好きな人の話をしている時、その人をいちばん近くに感じるんです。
愛しくてたまらない時間です。
自分と人、両方の自由を信じるということ
これまで私は、「常識に縛られるのが嫌だ」「常識を壊したい」と思っていました。
ごく最近、自分についての大きな発見がありました。
「常識」を、「壊す対象」として悪者に仕立て上げたいのではなくて、本当はただ、命のままの感覚を取り戻したかったのだということです。
常識を壊そうとすることも、超えようとすることもしなくて良かったんです。
「そこに力を込めることはない」という感じ。
常識があってもなくても関係ないんですね。
私は、他人からの目に正しく映る形かどうかは関係なくて、関係性の名前のないまま、命と命で出会いたい。
そして、自分の自由だけでなく、相手の自由も同時に信じています。
誠実に関わることが、常識の外にあるからと言って単純に否定されないように。
(世の中一般の「誠実」の定義も、型にはまりすぎている気がしています)
ただただ、自分の感覚に正直でいようと思います。
自分の感覚も、相手の感覚も、ふたりの間にある関係も愛しい。
関係性はその時々で変わるもの、うつろうものでもあって、ハッピーな時もあればなんかうまくいかない時もありますよね。
その時々の形を、その時々の心地良い抱き方を探って、抱いていられたらいいなと思っています。
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