ネット上の発信は、想定していない層にも届くことがあります。
ある時、センシティブな領域に関わる依頼が届きました。
その依頼は、年齢の線引きがあるため、具体的な助言や継続的な関与は行わない判断をしました。
私が依頼を受けるのは「18才以上」かつ「高校生ではない」女性に限っています。
ここで書きたいのは、内容ではなく、依頼への姿勢の話です。
今回届いた依頼のケースは、行き詰まりというより、未知の領域を前にして立ち止まり、その領域にどう入っていくか、どう扱うかの情報を求めている状態に近いものでした。
このような件は、私が出て行く案件ではないと判断しています。
未知の領域を前に立ち止まってはいても、「十分な試行錯誤を経た上で行き詰まっている段階」ではないからです。
知らないこと、経験していないこと、想像がつかないこと。
その前に立ち止まるのは自然なことで、そこにすぐ第三者が介入する必然性はありません。
むしろ、相手の持っている力を奪う「余計な介入」となることが多いでしょう。
これが、もし、相手が大人だったとしたら。
ある程度の試行錯誤を重ねた末に、自分一人では扱いきれない地点に来ているのであれば、外部の関与が意味を持つ場面もあります。
ですが、今回の状態はそうではありませんでした。
自分自身で確かめていける余地があり、無限の可能性を秘めていました。
その過程を、第三者の私が奪いたくない。
だから私は、口を出しませんでした。
誰かにとっての何かになろうとしなくても、私の内側は静かに肯定していました。
「高揚や達成感のために動くこと」を、しなかったことを。
役割を引き受け過ぎた感じも残っていません。
境界を保ったまま終えた、という「確認に近い感覚」でした。
大人になってから立ち止まる地点
大人になってからの行き詰まりは、何もしてこなかった結果ではなく、むしろ試行錯誤を重ねた末に起きることが多いです。
・これをすれば喜べると思った
・これを手に入れれば幸せになると思った
・幸福感が続くと思った
…だけど、実際にやってみたら何かが違うと感じた。
その違和感から逃げるように、「こんなはずじゃない」と思いながら、やり過ごしてしまってはいないでしょうか?
違和感を正面から捉えることは、怖いです。
勘違いだと思いたい気持ちになります。
でも、違ったと感じたことは、失敗なのではありません。
本当は、そこで立ち止まって、何が違うと感じているのかを扱い直す段階に来ているだけです。
他人や社会のせいにすることなく、自分を主語にしてその違和感を扱い直すことができるかどうか。
すぐに答えを出さなくてもいい。
誰かの正解に寄せなくてもいい。
その違和感をなかったことにせずに、自分の側に戻してみること。
それが、自分の幸せや自分の満足へ進むための前提になります。


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