LGBTとは、性的少数派のことを指す言葉です。
セクシャルマイノリティ、セクマイとも呼ばれます。
私にとって、マイノリティであることは、「自由や尊厳を勝ち取る存在」の象徴ではありません。
むしろ、自分の感覚に気付き、それを選んで生きてきた結果として、とても自由で、自然なあり方です。
「自分の感覚に気づいて、それを選んで生きる」とは。
- 社会の枠組みや「普通」に無理に合わせなくていい
- 「こうあるべき」の外側で、自分自身との関係を結んでいる
- 誰かに認められなくても、「これが私だ」と知っている
「マイノリティであること」は、外からそう呼ばれるだけのことであって、「私の本質がマイノリティ」なのではありません。
世の中の「ふつう」や「多数派の感覚」が当然のような空気の中では、「自分はマイノリティである」ということが本質のようになりがちだと感じています。
例えば、自分を説明する時に、それを肩書きにすることなども、存在の本質が逆転しています。
私のことで言うと
「トランスジェンダーのヨォです。」というふうにしがちですが、
「ヨォです。私はトランスジェンダーです。」というのが本来である、ということです。
マイノリティである前に、自分は自分だということ。
つまり、私は私として、最初から自由だったのです。
マイノリティに対しての差別や偏見がないとは思っていません。
でも、それに対して戦う姿勢を見せたり、主張する場所よりも、静かに自分の感覚を守れる場所で生きていたい。
自分が柔らかくあれる生き方を選んでいるという感覚が私には合っている、というそんな感じ。
肩書きにも、属性にも、私の本質はありませんでした。
集まって声を上げるよりも、ひとりで自由に立っている人同士が、静かに出会うことの方が、私にとってはリアルで、あたたかいと感じます。
マイノリティのイベントやコミュニティに集わなくてもいい。
「セクマイの私をわかってもらいたい」というよりも、私個人を見ようとする人やわかろうとする人と出会えたらうれしいんです。
一般的な機会での出会いでは、相手からの何気ない言葉に傷付く可能性も高いです。
それでも、枠や属性の無い場での出会いこそ自然だと感じています。
私のマイノリティ性は、叫ばなくていい。誇らなくていい。
特別なことではなく、ただ、それが私の普通です。
怒りで熱くならず、無力感や寂しさで冷たくもならず、柔らかく温かくあれる感じであれば、それは自分の本質を外していないのだという体感でいます。


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